うるるのルーツ、社名になったエアーズロックに出会うまで<前編>
年末年始は家族で毎年過ごしている、都外の別邸に行きました。
子どもたちに土遊びを、と思って購入した自然溢れる場所なんですが…。
私が家の周りの木や芝を刈っているあいだ中、子どもたちはネットフリックスばかり(笑)。
結局わたしが一番、自然を楽しんでいます。
さて、あっという間に2021年。
今回は、改めて自分の幼少期からを振り返り、「うるる」のルーツを探ってみることにしました。
ちょっと長くなったので、前編、後編に分けて書きたいと思います。
目次
小学生のころは、いわゆる「好奇心旺盛」な子どもだった
小さい頃はとにかく、なんでも自分でやりたがる。
私の記憶の中では3歳か4歳くらいのときから「僕がやる!」とか「僕にやらせて!」とか、絶えず言ってる子どもだった気がします。
とにかく、誰かが何かをやっていることを自分でもやってみたい、という衝動にかられて。
そんな子ども時代でした。
例えば、小学4年生くらいの小学校の宿泊学習のときのカレーづくり。
火を起こすのは、危ないし、テクニックもいるから…と先生がやってくれるものです。
でも、自分がいる班は違いました。
「キャンプとかで火を起こしているから、全然できるよ!」
と、先生には任せず、私がやることに。
結果、自分の班だけカレーつくれませんでしたね(笑)。
火を起こすことができなくて。
とにかく、好奇心がすごい強かったんだと思います。
あれってどうなってるのかな?とか。
触ってみたいなやってみたいな、とか。
気になって、やりたいってなって、やって失敗もして。
失敗することが、成長する手段だと知っていた
子どものころ、この時期はスキーもよくしていました。
北海道の人って、物心ついたときはもうスキーを滑れているんですよね。
どういう風に上手になっていったかっていうと、転んで上手くなる。
最初のころ、スキーの授業は、転ぶ練習からするんです。
安心を得るプロセスからスタートして、転ばないとどこまでいけるかとかも知らない状態。
だからこそ、転ぶことが成長する手段になります。
「失敗することが、成長の手段になる」
それを幼い頃から、肌で理解していたような気もします。
これはスキーだけではなく、なんでもそうだと思うから。
それが、自分の好奇心と行動力を支えていた根幹だったと、今振り返ると思います。
大学に進学せず、卒業してアルバイトを始めた18歳
野球も、それこそ物心つくときから、高校3年生くらいまで、ずっとやっていました。
もう朝から、暗くなるまで。土日も休まず。
中学で一度野球から離れるも、野球をやっているときはやめようと思ったことはありませんでした。
やるのが当然だし、まあ面白い。ほかに選択肢もない。
やっぱサッカーの方がいいとか、水泳がいいとか思ったこともない。
それだけ野球は続けてたし、高校2年生くらいまではほぼ学校も休んだことがありませんでした。ただ、勉強は大嫌いでした(笑)。
通っていた高校は、進学校。
99%はみんな進学する学校で、高校卒業して就職する人は、ひとり、ふたり程度。
わたしは大学を受け、すべて落ちて。
浪人生になることは考えませんでした。とにかく、勉強が嫌いでしたから。
むしろ、解放されたという感覚のほうが近かったかもしれません。
だから高校を卒業し、とりあえずバイトしようと思いました。
アルバイトの求人をみて、時給の一番高いところがビルの窓拭きでした。そこで半年間くらい、バイトして。今でもこの経験は、年末の大掃除におおいに役に立ってます(笑)。
「スーツ着たいな」からの、営業職へ
半年間、アルバイトをして、ふと思ったのが「スーツとか着る仕事できたら、かっこいいな」というもの。
当時18歳。転職雑誌をおもむろに見ましたが、何も分からない。
営業職とか専門職とか、メーカーなのかどうか、なんてことすら判断がつかず、就職活動もやったことがない状態でした。
ふと目に止まったのは、スーツ着た写真で写ってる会社。
「この会社は、間違いなくスーツ着るだろうな」と思い、面接へ行きました。
面接では「明日からおいで」と言われ、そこに就職することに。
そこは、ファックス付きの電話機を訪問販売する会社でした。
初日。1回だけ、先輩の訪問営業に同席して、そこからは「後は、ここから一人で行っておいで」という感じでした。
電話機の訪問販売は、大体平均、月10台売れば「おめでとう!」となる。
私の場合は、初日から契約獲得。
OJTも何もなかったので、ひたすら1日300件ほど回る中で、細かい営業トークやコミュニケーションのPDCAを回していきました。
そして、月に50~60台ほど売るようになり…
1ヶ月経ったら主任。翌月は係長。
その2ヶ月後には課長…と、順調に営業成績を出し、19歳で次長になりました。
(その頃には、どんな家か、を外から見るだけで売れるかどうかが分かるようになってました)
一方、訪問営業はだいぶ特殊な仕事です。
100人いても、1ヶ月くらい経てばどんどん辞めていく。
誰も何も教えてくれないし、売れない。
だから、本当に売れた人だけが残ってるみたいな会社でした。
ただ、前のブログでも書いたように「お客さまのためにはなっていないのでは?世の中のためになっていない仕事なのでは?」と思うようになってから、一気に仕事がつまらなくなっていきました。
疑問を持ちながらも、働き続けていました。
出会いは、その瞬間に訪れた
ある日、ロン毛で茶髪の社員が入社してきました。
「これまで、何やってたの?」と聞くと、「オーストラリアでサーフィンしてました」、と。
ワーキングホリデーというビザがあって、1年間それで海外に行けるという。
「何それ、俺も行きたい」
瞬間的に思い、その日に辞表を書きました。
未だに、この会社の上司だった人と付き合いはありますが、
「お前が言うならいいんじゃないか」
と、すぐに受け入れてくれました。
手持ちのお金は15万円くらい。
それに、リュックに1回分の替えの下着とTシャツを入れ、オーストラリアに行きました。
でも、オーストラリアのシドニーの空港に着いて、ふと「あれ?今日俺どこに泊まるんだろう?」って。
無計画で行き当たりバッタリだから、当時はそんな感じでした。
英語も全然しゃべれなかった。
それでも、なんとなくホテルのピックアップしている車を見つけ、到着したところに宿泊。
1泊12ドルで、1週間くらいそこにいました。
でも、何もおもしろいことがなかった。やることもなかった。
別に語学勉強に来たわけでもない、サーフィンもできないしな…。
勢いで来たのは良いものの、もう帰ろうとおもったときに頭をよぎったのが、ある知人でした。連絡してみると、日本にその人も帰ろうと思っていたらしい。
じゃあせっかくなら、と車を買って、合流し、これでオーストラリアを旅しよう、と。
そこから、私の楽しいオーストラリアの日々が始まりました。
後編へ続きます。
また、課長時代の話は、こちらのブログでも細かく書いています。